オシの美しさと危うさ②(管理人ブログ)

 

オシは心を救う。でも、ときに人を狂わせる。

ここ数年、YouTubeや配信を見ていると、投げ銭というものをよく見かける。
少しならわかる。
楽しい時間をもらった。
役に立つ話を聞いた。
その「ありがとう」をお金にして返す。
まあ、そういうことだろう。

しかし、ときどき妙な額が飛ぶ。
おやおや、そんなにいくのか、という金額が、ぽんと出る。
しかも一度ではない。
何度も飛ぶ。
見ているこちらが、ちょっと背筋をかく。
これはもう、感謝だけでは片づかないな、という気がしてくる。

人はなぜ誰かを応援するのか。
たぶん、その人の努力や挑戦に、自分の気持ちを少し重ねるからだ。

がんばっている姿を見ると、こちらまで妙に力が入る。
報われてほしいと思う。
うまくいけば、自分のことのようにうれしい。
人間には、そういうへんな連帯感がある。
血もつながっていないし、会ったこともないのに、勝手に一喜一憂する。
なかなか変な生き物である。

それに、応援には仲間の匂いがある。
同じ人を好きな者どうしで集まると、なんとなく安心する。
妙な一体感が生まれる。
ひとりで見ていたはずなのに、気がつけば群れになっている。

オシがいることで、毎日に少し張りが出る。
それは本当だ。
だから、オシが心を救うというのは、大げさでもなんでもない。

しかし、応援には気持ちよさがある。
名前を呼ばれる。
コメントを拾われる。
気づいてもらえる。
そういうことが起きると、人の心は、わりと簡単に前のめりになる。

投げ銭が大きくなるとき、その中には感謝だけではなく、覚えてほしい、近づきたい、特別でいたい、という気持ちが混ざってくるのだろう。
まあ、そうだろうなと思う。
人は、自分だけの特別席が好きだ。

そのへんから、応援と依存の境目はだんだん怪しくなる。

本来、応援というのは、相手が元気でいてくれたらうれしい、活躍してくれたらうれしい、それで充分なはずだ。
だが、そこに見返りが入り込むと話が変わってくる。

反応してほしい。
覚えていてほしい。
特別扱いしてほしい。

こうなると、応援はだんだん息苦しくなる。
相手のためのはずが、気がつくと自分の欲の話になっている。

大事なのは、金額の大小より、その応援が自分を明るくしているか、削っているかだろう。
応援したあとに少し元気になるなら、たぶんまだいい。
だが、もっとほしい、もっと返してほしいと苦しくなるなら、そのへんで一度立ち止まったほうがいい。

そしてネットには、もうひとつ妙な景色がある。

同じ考えの人たちが集まって、似た言葉を反響させながら熱を上げていく。
そのうち、違う意見の人や気に入らない相手に、ずいぶん強い言葉が向けられることがある。
ときには有名人まで、その流れに平気で乗る。

本来、誰かを応援することと、誰かを叩くことは別の話のはずだ。
だが現実には、「こちら側」を強く肯定する気持ちは、「あちら側」を強く否定する気持ちに変わりやすい。
仲間意識というのは、あたたかいだけでは終わらない。
油断すると、ちゃんと敵意まで育てる。

オシは心を救う。
これは本当だと思う。

だが、その光に近づきすぎると、目がくらむことがある。
応援していたはずなのに執着になる。
支えたいと思っていたはずなのに見返りを求める。
仲間でいたかったはずなのに、違う相手を攻撃する。

人の心というのは、なかなかまっすぐにはできていない。

だから、応援には距離感がいる。
夢中になるのは悪くない。
熱を持つのもいい。
だが、自分を見失わないこと。
応援しているからといって、他人を傷つけていい理由にはならないこと。

そのへんは、ときどき思い出したほうがいい。

オシは心を救う。
でも、ときに人を狂わせる。

その両方を知ったうえで、それでも自分なりの距離で応援する。
たぶん、それがいちばんいい。

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